色眼鏡レポート

虹彩がこうなんだから仕方ないとこある

色眼鏡を外せない

 趣味:邪推

 

 この趣味欄を見て、

 

『友達になりたい』だとか

 

『もっとよく知ってみたいなこのひと』とか

 

 

ならんでしょう!!!!!!!

 

 

 そう、私の目に焼き付いたこの色眼鏡は、脳に直接結びつき、邪推によってストレスを感じさせ、汚いホコリとなってアウトプット排気口に影響を及ぼしているのだ。

 

ちなみにアウトプット排気口とは、私の中に備わっているものだ。

創作用排気口とも呼び、見たもの感じたものから得られた『私の考えた何でもないもの』を、手を使い頭を使い、想像力をフル回転、創作を生み出す空気穴である。

 

 その空気穴にホコリが詰まってとれない。とらないとアウトプットができない。創作ができない。そうなると、私の持病である『創作強迫観念』が肋骨あたりをミシリと痛めてくるのだ。

 

 造語ばかり飛び交うが、現状の仕事時間や通勤時間が減れば解決することに対して、ヤキモキしているだけなのである。

あと10日も経てば、今の職を手放すことになる。

 

 ぐうたらな10日後の私には、排気口の掃除をする元気が湧いてくるのだろうか。

 

がんばってくれ、10日後の私。

 

この手と鼓動が動くのか

 休日をすりこぎ棒ですり潰すのが趣味だ。

 

 夜。飲み終えたマグカップを、銀のシンクの谷底へ置くと、1日が終わる心地になる。使い古した我が家のシンクが、白色に照らされながら鈍く照り返すのを、目にも映さず背を向けた。

 

 3月いっぱいで仕事をやめ、年間で休日を多く取れる仕事に乗り換えよう、と動いた。4月前半を有給消化として、所属しながら勤務にあたらないかたちで取り決め、上司達の寂しげな声色に、涙と焦りが滲み出た。

 

 仕事を変え、休みが増え、私は創作するのだろうか。いまいち心が決まらないまま、もう4日もすれば2月が終わるのだ。

 

 どこへ行こうか、行けるのか。未来の私よ、どうか手を動かして、がんばってほしい。

 

ドライヤーで乾かすことができるものと、できないもの

 気づけばまた一年、美容師に会ってない気がする。

 

 美容師に施術されている時にする会話を、『人生で一番ためにならない』と言う人がいる。

私自身も、記憶に残っている美容師との話といえば、貸し出されたタブレットで競馬誌ギャロップを読んでいた時に反応されたことくらいだ。

そういえば、施術の定番、髪をドライヤーで乾かしている時。その時は自分の耳の熱耐久度との戦いに明け暮れているのと、熱風発するドライヤー氏の轟音で、会話は発生しない。

 

 では、自分で風呂上がり、髪を乾かしている時は。

耳の熱耐久を知り尽くしているために甘くなる乾かしと、古くなって威勢が弱くなったドライヤー音、そして、自分との対話が発生する。

 

 最近の自分は、金と時間、あと寿命のことを考えている。

今、これを打ち出している私は、転職することを考えている。が、転職できるような職場環境ではない現実を前に、甘い乾かしが更に甘くなっていた。

 というのも、五十坪程度の敷地のアパレルショップに、フルタイムスタッフが四人。そのうちの一人が昨日、流行りの濃厚接触者になり、先程、明日以降のシフトがまるっと変わったところなのだ。

もともと好きなブランドであるから、働く先として選んだが、人不足が解消されないことと、最近のブランドイメージへの理解が追い付かない現状。潮時なのではないか、と髪を乾かす私は考えていた。

大恩ある現店長とマネージャーに、辞める事を切り出す。その方法を考えれば考えるほど、熱風による外部からの熱だけではなく、知恵熱まで出るのではないか。すこし痛む頭に気づき、眉間を押さえる。

 

 明日からもまた、仕事の日々が続く。ついでに、バレンタインデーだ。感謝のチョコレートは用意した。私は、思いを伝えることはできるのだろうか。

 

乞うご期待......。

 

創作強迫観念

 何も生み出さず受け取るだけ、に苦しむのは、なんと愚かなことか。

 

 小説を綴る機能が備わったタイプの人間なのだが、生来の気分屋気質と、凝り固まったこだわりによって、油を指しても動かないものになっている。そう、私は創作物を、生み出すことができるものなのだ。

 趣味はファンをしている作品を読むことと、それの二次創作作品を読むことだ。これは10代半ばから続くもので、個人サイト全盛期から少し過ぎ、移り行き、衰えていくさなかを、指を動かしURLを飛び回り、ゆるりと堪能していたものだった。

 転機は訪れる。何を学ぶかによって進路がハッキリ形を成す、大学受験だ。高校時代を部活動に費やし、後輩達に運営を任せて引退するその少し前、私はなぜか、図書室に入り浸っていた。図書委員としての仕事をしていた、というのもあるが。その実読書に夢中だった。選んだのは、小説から児童文学、初心者向けの文学など、物語を楽しむことの出来るものばかりだった。実は中学時代にも同じように、進路を決める手前ほどの時期に図書室浸りとなっていた。その時はダレン・シャンシリーズに没頭していて、主人公の師匠役が亡くなったことが判明したシーンでは、本を一度置き、一人で涙を流した。

 さて、物語を創ることに魅力を感じ、学校勤務の司書と仲良くなり、図書室の主と化していた私は、芸術系特化の四年制大学へ進むことを決めた。夏真っ盛りの頃、AO入試を活用し、春から芸術大学生へと変身した。しかしここから三年後まで、私は実に芸術大学生らしくない生活を送る。

 部活動にまたもやすべてを費やし、司書課程も早々に諦めた私は、変わらず人の創作物を消費し、満足するばかりだった。三年生から所属したゼミは、創作することや研究することに対し、選択の自由があった。ゼミに入る頃は、ファンタジー創作物を独自の設定をしっかり練って作る、などと豪語していたが、実際それに沿った作品は、一つたりとも生まなかった。

 少しづつ在学期を擦り減らしながら、けれども道が見えないある時。私はようやく、自身が生み出した作品によって、創作物出産の快感を得ることとなる。それが後の卒業制作品で、唯一完結させることのできた、「小説」だった。

 快感を得た私はもはや、悦に浸っていた。最高傑作なのだと。同時に、焦っていた。

 

完全オリジナル作品、一人称視点。

 

 物語を生むために、シナリオとキャラクターを創り出す。それが、どうしても二次創作作品に落とし込めない。落とし込もうとした時、自身の解釈と一致せず、設定すら溜まらず。そんな職人気質を幼稚にしたようなものを背負い、生活するための金を労働でつくる日々を送り続け、そして世に絶望した。

 

 結局のところ、自分に折り合いを付けられないまま五年ほどが経ち、今なお簡単なSSすら、生み出すことができないままでいる。

 今日も今日とて私は、人が磨き上げた創作物を堪能する。読み終えた私には、ただただ無情なほどの、空焚きの子宮のみが残る。

 

ほしい遺伝子、ほしい人

 疑うべきは自分。その本能だ。

 

 おそらくの話だ。私の家系、それも牝系は、パートナーを選ぶ目がない。

 

家人こと我が母は、ひそかに金を借り、苦し紛れの嘘をつき、果ては所属していた職場の契約金を無くしてクビになり、あの世へ逝った。

母の妹は、精神が弱く(おそらく糖尿病系の症状でもある)、実家から離れられない旦那を、自身と子供たちのためにも切り離そう、というのを決断するタイミングまできた。

 

 恋愛・性交渉対象が男である私は、この流れを汲むと、『男を見る目』がない。

実際歴代の恋人は皆精神的に弱く、未来への見通しがまるでたたない人間しかいなかった。声音が優しく、所作も煩くないことくらいしか、長所はなかった。そういえば、私の父もそうだった。

 

 他人に好意を抱く時。生物としての繁栄を望む肉体は、相手の肉体・美醜・人格などを、直感で「欲しい」と思うのだろう。

ならば私は、自分の恋愛的・性欲的直感は信じず、バンクから種をもらう他ない気がする。

 

まあ、私が単一生殖で子を成せばいい話なのだが......。

 

手を繋げるか、YESかNO

 感覚を知覚するのに優秀すぎる。

 

 手を繋ぐ、という行為と縁がない。

そのためか、他人の手の感触にすこし恐れのようなものを抱いている。

 

 いつか、抵抗がなくなって、その恐れが拭われるのか。

それが例えばパートナーなら、その手の温度に心ときめくのだろうか。

それが家人との気まぐれなら、幼い日と比べて会話が弾むのだろうか。

それが、大事な人の最期なら、伝えてくる熱を残さず拾おうと、爪の先まで包みこむのだろうか。

 

 きっとそう、仰々しいほどのことも起こらず、拭われる日がくるのだろう。

そうだといいな、と思った。

 

500年程度生きるコツ

 背を、丸めて丸めて、ぎゅっと目を瞑る。

 

 目には見えない心には、人の赤子程度の大きさの穴が空いている。自分の身を抱き締めて、どうしようもないほどぽかりと空いた穴の、大きさを確かめてみる。ちょうど、愛用のブタさん型ぬいぐるみをすぽりと納められるくらいのそこには、魂のグラム以外何があったのだろうか。

 

 大好きなあのコがもういないことに。

もうこの世に期待できないことに。

生きていることが嫌になることに。

 

 どうしたって埋まらないので、体の水分と塩分を少し使って、目から流れるそれを、「無意味だな」と独り言ちる。

 

 そして朝になって目を覚ますと、何を食べようか考えるのだ。