虫の知らせがあるならば
いってらっしゃいの見送りは、後悔の無いように
生き物が生まれて死んでいく。当然の理の中、自分も生きている。
人間は無駄に物事を考え、予想する生き物であるため、あり得るかもしれないものに恐怖する。
また今日も、朝8時30分に出勤のため家を出た家人が、18時30分に帰宅し、今、家の布団で眠っている。それがいつまでも続く保証がないのがこの世だ。
私の大事なある人が言った。
「帰省した我が子がいざ、下宿先に戻ろうという時。何度も見送ってきたのに、その時はなぜだか涙が出た」
第六感の有無や、虫の知らせ。そういったものだった、のだろうか。
その子はそのあとすぐ、自分の望まない死を迎えてしまった。他人の悪意に殺された。
それからはいつもこうだ。いくら眠くても家人の見送りはこの目でするし、できなかった時はいつも、頭に「見送れなかったこと」が引っかかる。
習慣と化した、呪いのような。けれどそんなかわいいものではない。どうしたってこの『お見送り』は、どんな場面だろうと『エゴ』なのだ。満たして、ほんの少しでも安らぎと、後悔を減らす。そんな自衛。
寒さに鼻をすする、家人の生きた音。明日もきっと、安心したくて、駅へ向かう姿に手を振るう。
ゑ