色眼鏡レポート

虹彩がこうなんだから仕方ないとこある

好きそうな物 予想選手権大会 予選敗退

 花なんて買って渡せやしない

 

 身近な人の『好きな物』は。たとえばドリンク。商品名などを記憶して、買い物中に見かけた時に「おっ」と声に出すなどして。買うべき物を見つけたかのような心地で買い物カゴに入れ、会えた時に渡せるように用意する。

 

 『好きそうな物』はどうか。たとえばドリンク。買い物中に見つけた新商品、そのフレーバーがその人の『好きな物』に類似していたり、関わる中で得た情報から考えられる好み。見慣れない、または初めて出会ったそれ。予想する。その末に買い物カゴに入れた。さて、どうか。

 私はその予想を、よく外すタイプである。私の予想というものは、自分の記憶や情報に頼る以上に、直感に委ねられる部分が大きい。最初の「好きそうだな」という印象のままろくに考えを転がさず、かといって、自信を持っているわけでもなく。「好きだといいなあ、好きじゃなかったら私がもらおう」などと甘い考えでカートを押すのだ。

 

 20年来の友人などにも、『好きそうな物』サプライズが、自信を持ってできない。頭に花を生やした状態でいる時などに、突然押し付けるなどはあるが、それはもはや予想などではない。

 そのため、その人と共にいる時、横で『好きそうな物』答え合わせをしながら、キャッチボールをするのだ。気分や体質なんかを復習しながら、勧める。そうして新たな出会い、予想外の出会いなど、そんなものを共有できたら。

それはとてもいいことだと思う。

 

恋路、その障害、影を照らして阻みたい

 障害がなければないほどいいのだ、恋なんて。

 

 人間、色々な恋をする。熱量、対象、様々だ。その恋の行先が、時として人格や人生にまで響くことを、私は許せない。

 たとえば、男性体でかつ心も男性である人間の、恋愛対象が男の人間だったとして。彼の人生の道筋には、いくつかの可能性が現れるだろう。相手とどんな関係になりたいか考えた上で、相手に告白する、しない。自分の考えだけじゃ決めきれない時は、他人に意見を求めたり、判断の一端を委ねるだろう。本来これくらいシンプルでいいのだ。

 しかしこの世では、こういかない。同性に恋をすると、性別まで変わる可能性があるのだ。自分の体が心と食い違う、それならばいい。異性に恋をすることを当たり前だと考える、頭のカタイ大間抜け共が存在するために、道筋は困難を極め、曲りくねり、正常な判断ができなくなる。

 恋をしたなら、その恋の行方は、真っ直ぐであるべきだ。世の大間抜けな、多数派だと思い込んでいる奴らの価値観によって、その道筋は曲げられてはならない。

 

 視界を開き、自分の心のみを見よう。心の草原、その道筋に、自分と対象以外の影があるならば、無視をしてほしい。そう願いながら、ランタンを磨く。

 

虫の知らせがあるならば

 いってらっしゃいの見送りは、後悔の無いように

 

 生き物が生まれて死んでいく。当然の理の中、自分も生きている。

人間は無駄に物事を考え、予想する生き物であるため、あり得るかもしれないものに恐怖する。

 

 また今日も、朝8時30分に出勤のため家を出た家人が、18時30分に帰宅し、今、家の布団で眠っている。それがいつまでも続く保証がないのがこの世だ。

 

 私の大事なある人が言った。

「帰省した我が子がいざ、下宿先に戻ろうという時。何度も見送ってきたのに、その時はなぜだか涙が出た」

第六感の有無や、虫の知らせ。そういったものだった、のだろうか。

その子はそのあとすぐ、自分の望まない死を迎えてしまった。他人の悪意に殺された。

 

 それからはいつもこうだ。いくら眠くても家人の見送りはこの目でするし、できなかった時はいつも、頭に「見送れなかったこと」が引っかかる。

 

 習慣と化した、呪いのような。けれどそんなかわいいものではない。どうしたってこの『お見送り』は、どんな場面だろうと『エゴ』なのだ。満たして、ほんの少しでも安らぎと、後悔を減らす。そんな自衛。

 

 寒さに鼻をすする、家人の生きた音。明日もきっと、安心したくて、駅へ向かう姿に手を振るう。

 

一分経てば気にならないことでも

 想像した結果怖がってちゃ、どうしようもない。

 

 二面性。作品題材にしやすく、キャラクターに言動への信ぴょう性や整合性といった、深みを持たせるのには、大変使い勝手のいい特性だ。

 

 さてこの二面性、性格や人格などというなんだか仰々しいものでなく、大概の人間がある場面で発露させるもの、それこそが私の怖がるものなのである。

セルフや無人化も進んではいるが、『買い物をしている時の店員への態度』こそ、もっともお手軽に覗き見ることが出来る二面性なのだ。

 

「あ、目の前で横柄な発言をするこの人、今は一人だけど、家ではすごくいい親の面があったらどうしよう」

 

 頼むから家でも横柄であってくれ、悪人であれ。

自分が接客をするタイプの店員を仕事にしているために、こんなどうでもいい祈りを、一週間に何度かしている。

私一人が祈ろうが、はたまた呪おうが、蝶のまたたきくらいの影響も起こらないわけだが。いいお客さんだった人が毒親であったり、腹の立つような声色の人がとても優しかったりなど、『客として良い・悪いものであるならば、人としてもそのままでいてほしい』というエゴが、私にほんの少しの恐怖心を植え付ける。

 

 だって嫌なのだ。意気投合し、笑顔で見送った客が、SNSで芸能人の誹謗中傷を打ち込むことで快感を得るような人だったら。

 

 何もかもが表面を見るだけでわかるわけではないこと、それはもう十分理解している。けれど、一瞬でも私が心地よく笑顔で関わったいい印象の人が、そのままのいい人であってほしい。

 

私は今日も、あるかもわからない面に怖がっている。祈っている。

 

あなたの風邪と、作風はどこから?

 自分の栄光を見つめ直してると、時間過ぎるのがとてもはやい。

 

 自身の過去作たる大学の卒業制作小説。いざ読み返してみると、句読点のタイミングや一文の読み心地に赤ペンを入れたくなる。まあ、筆を置きっぱなしにしている今と比べると、随分見事に綴っていたわけだが。

 

 様々な作品の二次創作小説を読む機会が、人生の三分の一以上の時間あるような生き方をしている。『小説作品を書いていた人間 』である以上、気にしてしまう箇所があまりに目について読めない、という事案が発生する人間は、一定数いるだろう。かくいう私もその一人で。

 

 けれど、オリジナルにしろ二次創作にしろ、SSから長編、詩歌やキャッチコピーまで。『完成させた人間』が一番褒められるべきである。このブログ上で、文章を考え綴るリハビリをしている私も、またいつの日か、納得のいく作品を創り出すことができるだろうか。

 

そしてそれで飯を食いたい。そう思いながら、暗い部屋の冷たい空気を、鼻水と一緒に啜った。

 

あ、何か見つけた時

 たとえば、ショッピングモールの通路のタイル。その上に白い液状のものが落ちているとして。それが何である可能性が高いか。1人で歩いている時に目に付いた些細な物事に勝手な意味を見出す遊びを、もう何年も楽しんでいる。

 

 今回の場合は、赤紫色の汁も付近にあったため、モール施設内のアイスクリームが垂れたか零されたか、のどちらかだろう。

かなしいね、アイス。

 

 この遊びの面白さは、『あらゆる可能性をでっち上げ、希望と絶望の二極をイメージする』ことにある。今はじめて、この時のために言語化したが。

 モール施設のタイル上の白い液体、この場合の『希望』はアイスクリームもしくは生クリーム、『絶望』は人間の体液、と考えられる。

 かっこつけた言い方をしたが、ただの連想ゲーム。朝日が登り外に出て、些細な何かを見つければ、またこの遊びをするのだろう。

 

室内温度にあてられて冷えた毛先

 シャワー中考えること、足ふきマットの上で消去される。

 

 自分の思想への決着や、その日の出来事へのベストアンサーを、二畳にも満たない風呂場で考える。そんな癖がある。自分だけの部屋がない私にとっては、30分程度の身を清める時間こそが、一人きりでのプライベートタイムと言えるのだ。浴槽に湯を溜めることを億劫と思う怠惰根性によって短さを助長されてはいるが、頭皮と共に思考もきれいになるというわけだ。

 この記事の冒頭文を風呂上り後のいくつかの必要動作後に打ち込んだわけだが、見事空っぽ頭になった。年季の入った吸水性が衰えた足ふきマットが、9割ふき取ってくれたのもあるが。

 風呂場くらいの狭さの私室があれば、いつでも思考整理をしやすいのでは?

そう考えもしたが、風呂場でシャワーをする、ルーティンのある動作も込みであることはあっさり考え付いた。

 

それはそれとして、私室はそろそろほしい。